その訳



漆黒の長い髪がランプに照らされている。彼の髪はとてもきれいで、夜闇を流れる清流に月の光が映りこんでいるかのように見える。その髪の隙間から覗く黄色く縁取られた理知的な輪郭を私はじっと見つめていた。
ベッドにうつ伏せになりながら閣下は書類に目を通している。こんなときにまで仕事のことを考えなくてもいいのに、なんて思うのは自分勝手だろう。私は物分りのいい部下のはずだ。

行為の後の気だるい柔らかな気分を彼の隣で味わっていた私は、さっきから寝そべりつつタイミングをうかがっていた。

いつ切り出そう。どうやって切り出そう。そもそも今夜はやめたほうがいいのではないか。

閣下は眉間のあたりを指先で押さえながら書類に並べられた文字をたどる。疲れが見える。

ふと、閣下が私に目を向けた。そして目の疲れを癒すようにゆっくり瞬きをした。


「もう、寝るかな。大尉はどうする」


つまり、このまま一緒に寝るか、自室に帰って寝るかを聞いているのだ。
普段の私なら、自室に戻ることを選択するだろう。疲れている閣下をゆっくり寝かせてやりたい。
でも今夜は、私なりに決意があった。今夜を逃すことは考えられなかった。


「……部屋に、戻ります」


気がつけばいつもどおりの言葉を口にしていた。
だが体は動かない。上半身を起こしてじっとしたまま。怪訝な顔つきで閣下が私を見つめる。


「……ここで寝ていったって構わないが」

「でも、閣下もお疲れでしょうから」


私はのろのろと起き上がり、服を着た。何を言ってるんだと、内心自分を叱咤しつつ、閣下の迷惑にはなりたくなかった。
閣下も私を止めるわけでもないし。当たり前だが。

服を着替え終え、扉に向う。足が止まる。取っ手に手をかけたものの、それをひねることができない。

やっぱり、だめだ。これ以上は、私が耐えられそうに無い。




「閣下」


ベッドに腰掛けた閣下が振り返る。私を見つめる瞳は構えるように細められた。ひそめられた眉に困惑が見え隠れしている。ある意味では彼らしくない。閣下は私を怖がってもいるのだ。


「閣下、あの……私」

「ん?」


優しい声色は警戒しつつ、私に精一杯優しくしようとしていることがわかる。彼の淡白な性格上、もたもたと部屋に居残る私がわずらわしいはずだ。なのに、なぜそんな風に優しくするのか。それは、彼は私がこれから言おうとしていることをわかっているからだ。


「私……」


言葉が出ない。言いたいことはたった一つ、頭の中では用意できているのにどうしても言葉にならない。
閣下は黙って私を見ている。優しい沈黙が私の言葉を奪って、想いが行き場を求めるように代わりに涙があふれた。

何を泣く?

あまりに唐突に流れた涙が自分でも信じられず、手で拭うことも忘れた。
彼の前で涙を見せたのは初めてだった。いや、彼の前でなくとも泣いた時の記憶などはるか昔のことだ。
閣下はこの状況をどうにかしてくれる何かを求めるように部屋に視線をさまよわせた。私を気遣う様子が閣下らしくなくて、そんな行動をさせてしまうことに罪悪感が生まれた。早く終わらせてあげなければ。


「閣下の……部屋に、こうして、……来たくて」


しゃくりあげる嗚咽に交えて何とか言葉を探した。
言葉を紡ごうとすればするほど、嗚咽がそれを飲み込もうとする。きっとひどく情けない顔をしている。


「会いたいって……思う。会いたいし、一緒にいたいって……っ……」

「おいで」


閣下は子供を呼び寄せるみたいに、腰掛けたベッドの自分の隣をぽんぽんと手で叩いた。いつもなら幸せを感じる仕草。いつも彼は私が近寄るのを穏やかな笑みを浮かべて待つのだ。そして私は遠慮がちに彼の隣に座る。いつもなら。
だが私は動かなかった。きっと今彼に触れたら、私はそれこそ何も言えなくなってしまう。彼の体温にはそういった力があるのだ。私の意志や思考全てを包み、どこか彼方へ流してしまう。
手の甲で涙を拭って、決して動かぬようにつま先に力を込めた。


「私、は……閣下が好きだから、ごめんなさい……好きだから、一緒にいたい、ごめん……なさい」


ずっと胸に抱えていた想いだった。閣下が好きだ。愛してはいけないとわかっていながら、どうすることもできぬ想いだった。謝罪の言葉が一緒にこぼれた理由はわからない。


「いいから、隣来い」


有無を言わさぬ口調だった。切れ長の少し鋭い瞳は先ほどより毅然としていた。

言うべきことは言った。思いのほかあっさりと。強情を張る必要も無い。
おずおずと近寄る。崩れそうに震える足を何とか動かし、私は彼の隣に座った。
閣下は私が座ったのを一瞥して確認しただけで、私に触れなかった。彼は足の上で無造作に組んだ指先を見つめて、しばしの沈黙があった。

彼の気持ちが透けて見えるようだった。なんとなく、わかっていた答えだった。
涙がすうっと引いていく。


「閣下には、奥方がいる。それはわかってます。何かして欲しいなんて思ってるわけじゃない……」

「いや……」


閣下はふと目線を宙に上げた。そして両手で額にかかる長い髪をかきあげた。


「悪いと思ってる。大尉には」


想像だにしていない台詞だった。閣下は、謝罪しているのか?


「私も、大尉が好きだよ」


心臓がどきりと熱くなって、だがすぐに冷めた。望んでいた言葉だった。しかしその言葉の後に続く「でも」という言葉を私は予想できてしまった。


「でも……大尉の気持ちに応える事はできない。私は自分勝手だし、いつだって優先するのは自分自身だ。大尉は何かして欲しいわけではないといったけど、私が大尉に愛していると言ってしまえばきっと何かしら期待するだろう」


違うか、と問うように、閣下が私に目を向けた。答えられない。
何も望んでいないと言いつつ、許されるならもっとそばにいたいと願うことは矛盾しているのだろうか。


「私は大尉の気持ちに対して責任が持てない」

「……わかります」

「これ以上大切にしてやることもできない。時間を割いてやることもできない。大尉のためにはっきり言っておく。大尉のことは好きだ。私にとって特別な存在であることは間違いないし、ただの上司と部下の関係だとは思っていない。だがそれは大尉が私に対して抱いている想いほど強いものではない」


わかります、ともう一度言おうとして言えなかった。喉の奥がきゅっと締まって言葉が出ない。
わかっていた。閣下の気持ちはわかっていた。今までずっと彼に仕えてきて、何度も夜を共にしてきたのだ。そして私はずっと閣下のことだけを考えてきた。閣下の性格は彼の奥方以上に理解しているだろう。彼の考えがわからないわけは無い。彼の言葉を予想できなかったわけは無い。それでも直接閣下の口から言われると、やっぱりきつい。


「私は、このままの関係でいいと思っている。私はこれで十分に満足なんだ。ただ、大尉が嫌なら無理強いはもちろんしない。私から離れて構わない」


まるで芝居の台詞でも聞いているかのような気分だった。
『私から離れて構わない』と言った。その言葉は脅しでもなんでもなく、閣下はきっと本当に私が離れても構わないのだろう。


「大尉が来たければ来ればいい。今すぐ決めなくていい」

「私は……閣下といたい」


一度正直になってしまえばどこまでも正直でいられるらしい。頭で考えるよりも先に言葉がついて出た。


「今までどおりの、関係がいいです。私は前から閣下のことが好きだった。私は何も変わらないから」

「それならそれでいい」


閣下は立ち上がり、サイドテーブルのランプに手を伸ばした。その明かりを消す前に、柱時計を確認し、私に向き直る。時計は既に真夜中過ぎをさしていた。


「どうする? 私の部屋で寝るか。それとも自分の部屋に戻るか」

「……今日は戻ります」


そうか、といって閣下はランプから手を引いた。私が出て行くのを待っていた。
戻ろう。足が重い。だが出なくては。
重厚な扉の取っ手を引くと暗い廊下は寝室から漏れる明かりで照らされた。そこに私の黒い影が映りこむ。その影の輪郭はくっきりと歪に浮き出ていて、そこにあってはならない不自然を感じた。
扉を閉めた。廊下は暗闇になった。扉に背をもたれ、ぼんやりと宙を見つめる。四角い窓枠の中、明るい月が見えた。月明かりは優しい。何を照らすでもなく、ただそこにあるだけだ。


「何で」


呟きがこぼれた。どういう意図を持って呟かれた言葉なのか、自分でもわからなかった。

私はずっともどかしかった。自分の想いをひた隠しにしてきたことが。だが今夜、言いたいことは言った。胸のうちを伝えて、私はすっきりしたはずだった。

浮遊感が足元を包む。何かに引き寄せられるように、私の足は勝手に動いていた。段々と早足になる。廊下の突き当たりの階段を降りる頃にはほぼ駆けていた。宿舎に繋がる連絡通路が見えた。その先に私の自室がある。なにか意味不明の感情的なものが頭にのぼり、私は思わず掌で額を押さえた。心臓の動悸が激しい。苦しかった。連絡通路の両脇に連なる窓から誰かに見られているような気がして私は逃げるように宿舎に急いだ。通路の先の階段を上がり、廊下を駆け、ある部屋の前で足が止まった。力が抜けて膝ががくんと折れ、その場に座り込んだ。



「はぁ……あっ……」


扉にすがるように手を触れた。冷たい木の感触に何かを求めるように、額を当てた。
この部屋に入ってしまえばいいのだ。眠っているだろう部屋の主は私の存在に気がつけばすぐに起きて、まずは眠れるようにと温かいコニャックを入れてくれる。それから辛抱強く話を聞いてくれて、必要と思えば私にベッドを貸してくれるだろう。そしてきっと私が眠るまでそばにいてくれる。
わかっている。あいつは優しい。優しいことがわかっているから、私はこの部屋に入れない。


「なん、でっ……私……」


閣下が好きだ。閣下が好きだ。
思うのはそればかり。ではなぜこんなところにいる?


「ロック……ウェル」


部屋の主の名を口に出す。その名は私の高ぶった気持ちを少しだけ収縮させた。
少し顎を上げて私を見下ろす視線、呆れをたっぷり込めたため息はいつも私を苛立たせたけれど。
それでもそこに親しみを感じていた。それは閣下との間にはない感情だった。
あいつの声、瞳、言葉は全て私に優しく、暖かい。思い返すと懐かしさすら感じる。


『貴方は本当にバカだ』


あぁ、馬鹿だろうな。
わかっている。気持ちを伝えたところで、状況が好転するだなんて思っていたわけじゃない。


『どんな気持ちであれ、正直であるべきですよ。その方がずっと楽』


あいつは私が自分の気持ちを正直に打ち明けることを望んでいた。
それは、彼のためでなく、私自身のために。


……いつも、怖かった。本当の気持ちが知られたら、閣下に捨てられるんじゃないか。

でも、本当は、苦しかった。そんな気持ちを押し殺しているのが。


閣下に何かを求めていたのではない。何かを期待していたのではない。

私はただ、彼の前で正直でいたかっただけなんだ。